浮世絵で見る目黒

第3回 目黒 新富士

語り手:大江戸蔵三
都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。

聞き手:祐天寺なぎさ
都内の某新聞社に勤める文化部の新米記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。

造った“そば”から転落人生

蔵三さん、ずいぶん久しぶりじゃないですか。「連載って宣言しながら二回でおしまいかよ」って読者の皆様からクレームが殺到してたんですよ。

うるさいなぁ。悪かったよ。こちとら持病の糖尿病が悪化するわ、前立腺が悪くなって入院するわ、五十肩で腕は上がらなくなるわって、病気のアパートじゃなくてデパート状態だったんだよ。

みんな運動不足とかお酒の飲み過ぎとか、甘いものの食べ過ぎとか、蔵三さんの不摂生のせいでしょ。

あ〜そうだそうだ。みんな自分のせいだよ。でもなぁ、酒も飲まず甘いものも食べずに人生に何の楽しみがあるんだ? 俺達はありがた〜い飽食の時代に生きてるんだよ。別に江戸時代に生きてるわけじゃないんだよ。

でも、そもそもこの連載って江戸時代の話でしょ。それに「和食」が世界文化遺産に登録されたのも、日本古来の食生活が認められたからじゃないですか。和食をキチンと食べていれば、生活習慣病にはならないんですよ。

うるせーなぁ。医者みたいなこと言うなよ。そもそもだな、世界遺産といえば和食より富士山のほうが先だったし、この連載が始まる前にはまだ認定されていなかっただろ。それを見越して富士講についていろいろ話をしたんだから先見の明があったってことだ。

そういう自画自賛とか言い訳はいいから今回のテーマについて話して下さい。

はいはい。前回と前々回は「目黒 元富士」だったけど、今回は「目黒 新富士」。要するに、江戸時代の目黒にはこの時期2つのミニ富士があったということだ。

それもやっぱり富士講の富士塚だったの?


そうなんだけど、ちょっと成り立ちが違うんだな。これを造ったのは千島列島や択捉(エトロフ)島探検なんかで有名な近藤重蔵なんだ。前回紹介した元富士から南東に500メートル、ちょうど別所坂を登り切った高台に、当時江戸城紅葉山文庫の書物奉行だった重蔵の抱屋敷、つまり別宅があった。重蔵は富士講中の手を借りて、文政2年(1819)に2ヶ月でこの築山を完成させた。

ふ〜ん。でも、お奉行さんがなんでそんなもの造ったの?


それが良くわからないんだ。ただ、近藤重蔵という人は役人の中でもずば抜けた秀才で、御家人としては異例なほどエリートコースを歩んだ人なんだけど、自信過剰でエキセントリックなところがあったから、この新富士を造った年に大阪に左遷されているんだ。

頭が良すぎて周りの人から理解されないみたいな…。


まぁ、そうなんだろうな。普通武家屋敷に富士塚なんか造らないからね。スケールが大きいというかユニークというか…。で、これができて以降、7年前に造られたミニ富士を「元富士」、近藤重蔵のミニ富士を「新富士」と呼ぶようになったわけ。

でも、絵を見ると一般の人が登って楽しんでいるように見えるわね。江戸時代って封建社会でしょ。武家屋敷を観光地に開放しても良かったの?

実は、重蔵は新富士が完成する前に大阪に赴任しちゃったんだ。だからその間、元の地主が管理していた。この土地はもともと高台にあったから、元富士よりも頂上の眺めが良かったらしい。広重は『絵本江戸土産』という作品の中で、四季それぞれに素晴らしい眺めで、特に秋がいいなんて書き残しているんだ。

この絵は春でしょ。花見もできる展望台みたいな感じだったのね。下には川も流れてるし。

下の川は三田上水といって玉川上水の分流だ。昭和初期までは使われていたんだけど、水量が少なかったせいもあって、暗渠化されて、戦後には姿を消した。でまぁ、キミが言うように観光地としては大変賑わったから、重蔵が留守の間に管理人がそば屋を開業して大儲けした。

観光地にレストランっていうのはつきものよね。


ところが、重蔵は大阪でも評判が悪くて2年後に戻ってきちゃった。それで“金のなる木”であるこの地を死守したい管理人と、もともと自分が造らせた富士塚だと主張する重蔵との間で係争になって、結果的には重蔵側が勝つんだけど…。

そば屋さんで儲けた管理人は面白く無いでしょうね。


それで管理人側が重蔵側に嫌がらせをするようになった。これが結構しつこかったらしくて、我慢できなくなった重蔵の息子が文政9年(1826)に管理人一家を惨殺してしまう。結果、息子は八丈島へ遠投、重蔵も監督不行き届きということで近江の分部家へお預けとなった。

「新富士」は重蔵さんにとって災いのもとだったのね。


しかも重蔵は滝ノ川村に閉居していたから、自身がこの地で「新富士」を楽しむ時間などほとんど無かった。重蔵が失意のまま世を去ったのはその3年後だ。
「新富士」はその後どうなっちゃたの?


土地は人手に渡って、大正時代には笹間洗耳(せんじ)が所有していたという記録があるけど、昭和34年(1959)に、国際電信電話目黒研究所が建設されることになって姿を消した。絵のちょうど中心部、ミニ富士の中腹に石碑が描かれているけど、この石碑は別所坂児童遊園に移されて今でも残ってるよ。
へぇ〜。今度見に行ってみようかな。新富士があった場所は今どうなってるの?

テラス恵比寿の丘という高級マンションが建っているよ。このマンションが出来る前、平成3年(1991)に、富士講の遺跡や遺物が発掘されて結構話題になったんだ。この時出土した大日如来坐像(写真下)なんかは平成20年にオープンした「めぐろ歴史館」で見ることができるよ。

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